独りの部屋を目覚まし時計のアラームが横切る。
テレビのリモコンに手を伸ばしてスイッチを入れれば
いつもどおり、丁度天気予報の時間。
どうやら今日は晴天らしい。
どうせ殆どの時間を空調の整えられたビルの中で過ごすのだから
どうでもいいのかもしれないけれど。
体を起こして洗面へ向かう。
顔を洗って鏡に映る顔は
やっぱり少し疲れているのかな。
最近、空を見る暇もありはしない、なんて思っても
本当はそんなはずはないってこと、
誰よりも自分が解っている。
ざっと朝刊に目を通せばそろそろ家を出る時間。
重さの割に薄い気がする鞄を手にして僕はドアを開ける。
通りに出たところで、老婦人にすれ違う。
薄茶の犬が僕に興味を示してくる。
「おはようございます」
赤い首輪のその犬と、勿論その主人に軽く頭を下げて過ぎる時に
「行ってらっしゃい、気をつけて」
彼女は僕に当たり前のようにそう声を掛けた。
“行ってらっしゃい”なんて、随分と久しぶりの言葉だった。
情けないことに驚いて即座に何も返せない僕に
眉を顰めることもなくその人は、にこやかに頭を下げて過ぎて行く。
「・・・行ってきます」
呟くようにやっと返した言葉はきっと届かなかっただろうけれど・・・。
駅に向かういつもの道の街路樹は
気がつけば秋の色に染まり始めていた。
見上げた空は、夕映え間近
夏には夏の空があり、秋の空は秋の色を纏う。
何処がどう違うのか
はっきり説明することは出来ないけれど
何となく、色や音が違うのだ。
すじ雲が流れる手前を白い鳥が行く。
もう少ししたらきっと
遠目に見える山並みは鮮やかに色を変えて行くのだろう。
大通りから少し離れれば、気の早い栗が
既に実りの色をその身に映して降りて来ている。
朱色の背中のトンボが通る。
出張先から少しだけ足を伸ばして久しぶりに訪れた懐かしい街。
時間はそろそろ夕餉の匂い
微かに漏れ聞こえるテレビの音
間延びした豆腐屋のラッパが往来をゆっくりと通る。
四つ辻を曲がれば小さな文房具店
隣には花屋と煎餅店
駅前の通りはもう随分と変わってしまったけれど
こうしてひとつ路地を入れば
あの頃と寸分変わりない景色が迎えてくれる。
「おっと」
駆け足の子供達は家路を急ぐのか。
彼が小脇に抱えた袋に僕は見覚えがあった。
紺の生地にクリーム色の帯。
あれは確か図書館の貸し出し袋。
変わらないな、思わずそう呟いた。
少年の背に懐かしい時間が重なって
僕は軽く目を閉じる。
次の休みには少し部屋を片付けて、風を入れて
最近ほったらかしにしてしまっている本棚を整理することにしようか。
何冊か、買ったままになっている本があったはず。
きっとそんな休日の過ごし方も
今の僕には丁度いいのかもしれない。
何か絶対に“そう”ではなくてはならないことなんて
きっと本当は何処にも無くて。
形振り構わずひたすらに進むのもいい
思い悩んでその場所にじっと佇むのだって、大切なこと。
走ることしか出来ない時もあるし、後ろにしか進めない時だってある
それで、いいんじゃないかな
そんなふうに漸く思えるようになってきた。
何が良くて何が悪いのか
何処までが前向きでどこからが後ろ向きなのか
それを決める必要なんてきっとないんだ。
例えば今、こうして電車の窓から見ている
家々の全てに毎日は確かに存在していて
いったいいくつの物語がそこにあるのだろうと、考えてみたりもするけれど。
あの窓から見える町並みは、僕が見ているものとは違うし
同じ窓から見たとしても、同じ世界ではないのだろう。
感じ方はきっと人それぞれで、
そこには数え切れないほどの日常が流れている。
幸せや不幸せの定義なんて
それこそ人それぞれで
無い物ねだりなんて始めたら切りが無い。
幼子が天の月を取って欲しいと言うように
手の届かないものほど、時に焦がれたりもするけれど。
でも。
そう、突き詰めて考えてみれば
幸せ、がどんなものなんて
結局良くは分からないんだ。
少しだけ重い鞄を肩に掛け直し、電車を降りる。
改札を出れば、僕の上にも夕暮れが広がった。
明日は一駅歩いてみよう、何となくそう思ったりして。
こうして毎日を過ごして歩いて行ける、
そんな自分は実は、幸せなのかもしれないと
僕は今ちょっと思っている。
高層ビルの窓に半分欠けた月が映る。
最終間近の駅のホームで僕は一人、ぼんやりと溜息をつく。
どんなことにもきっと表と裏は確かにあって。
見えていることだけが全てでは無いだろうし
見えていないものの中に必ずしも本当があるとは限らないのだろう。
いいことばかりであるはずもない。
悪いことの方が多いのかも知れない。
歩くことが嫌になることも、少なくはなくて。
それすらも人生の糧なのだと
思えるほどに大人でもないし、
冷静な振りも出来はしないから
どうしても自分を持て余して、溜息が漏れてしまう。
昨日より今日、今日より明日が良くなければならないなんて
そんなことはきっとないんだろうけれど。
いつもと同じ電車に乗り込む。
半ば定位置と化したつり革は、座席の端から三番目。
疲れた顔のサラリーマンと網棚に放置されたスポーツ新聞。
車内の鏡像が映し出される窓の向こう、
闇に沈んだ街が流れて行く。
見えない月の半分は
見えないだけでそこにあるのだと
本当はずっと知っているはずなのに。
そう大きくはない店の白い壁の窓越し
久しぶりに見たそれに、思わず懐かしさが込み上げて。
ふらりと足を向ければ
入り口の扉に提げられた貝のモビールが軽やかな音を立てた。
静かな店内の棚にそっと
並べられているのは、大小様々な硝子瓶の中の船たち。
ところどころ窓から差し込む光にきらめいて
ゆらゆらと揺れる。
ボトルシップ
少年だったあの頃と全く同じに胸躍らせて感動できるほど
残念ながら今の僕は、素直でも純粋でも無いけれど
閉じ込められた小さな海と、そこに浮かぶ船の帆が
風を受けてはためく音が聞こえた気がして
棚の前で足を止めて、ほんの少し目を閉じた。
仕事で出掛けた海沿いの街。
思いのほか時間が余って、暫くのオフタイム。
快適と言うには高すぎる気温だったけれど
なんとなく歩きたい気分だったから、
そんな気まぐれに任せて街をうろついているうちに
賑やかだった蝉の声は種類を変えた。
穏やかな夏の日の午後は
短くはないはずなのに駆け足で過ぎて行く。
夕暮れ時の蜩の声に
どことなく寂しさを感じるようになったのは何時の頃からだろう。
友達と外を走り回っていた頃は
家に帰る時間の近付いたのを知らせる憎たらしい声に思えたものだけれど。
つい、と手を伸ばして上段の小さな硝子瓶をそっと手に取る。
少年時代から随分と遠く離れて
あの頃届かなかった高いところにも手が届く。
でも
もしかしたら、少年の僕が簡単に手にしていたものたちからは
今はずっと遠く離れてしまっているのかも知れない。
小さな荷物を手に店を出て
少しだけ顔を上げてみる。
夕暮れ始めの空が眩しい。
紙袋がかさりと音を立てて、まだ蜩は鳴いている。
過ぎる風にあの頃の田舎の空が蘇る。
何度も登っては怒られた神社の境内の木のうろに
そう言えば宝物を隠したのだっけ。
もうそれが何だったのかなんて思い出せもしないけれど。
膝に擦り傷をよく作っていた少年の自分の影が走り去る。
「あっ」
不意に聞こえた小さな声に現実に引き戻された。
通りの向こう側、母親に手を引かれた子供が
泣き出しそうな顔で街路樹を見上げている。
その視線の先にはオレンジ色の風船が不安定に梢に引っかかっていた。
然程高い位置では無い。
「だから離しちゃだめって言ったじゃない」
そんな声を聞きながら早足で通りを横切ったのは何故だろう。
「・・・っと」
少し手を伸ばせば、思った通り細い糸は僕の指に届いた。
「はい、どうぞ」
指先で絡んでいた糸を外し、屈んで小さな手にそれを戻す。
「ありがとう!」
「いいえ、どういたしまして」
・・・世界はきっとまだあの頃と同じくらい広く、
きらきらと眩しいのかもしれない。
硝子の中の海をすべる船に
僕はまだ夢を見ることが出来るだろうか。