なんということもない毎日
ただ時間は流れていく。
特にいいことがあるわけでもない
悪いことばかりでもないけれど
特別なこともなにもなくて
これでいいのかな、なんて思ったりもするけれど。
気付けば時間ばかりが流れ去って
なにも変わらない僕がいる。
一歩進んで、もう一歩。
大丈夫、苦しくなったら足を止めればいい。
ゆっくり休んで、立ち止まって
ぐるっとまわりを見回して
それから
また、前を向けばいいんだ。
目標がないと、いけないのかな
いつでも何かを目指して頑張ってないとダメなのかな
もちろんそれはとっても大切ですごい、こと。
前をちゃんと見て歩いていられるなんて
それはとてもすごいこと。
でも。
人の在り方はひとそれぞれ
何が正しくて何が間違っているのか
正解なんてきっとどこにもない
変わらない毎日を当たり前に
ひとつひとつの時間を大切に
過ごして行けたなら
それだけで、十分に素敵な毎日なんじゃないかって
思ってみてもいいのかもしれない。
突然の雨に一時の雨宿りを求めて飛び込んだ喫茶店
年若い店主がタオルを差し出してくれた。
自分と同じくらいの年齢だろうか。
いや、もしかしたら案外上なのかも知れない。
ぼんやりとそんなことを頭の片隅で思いながら
白木のカウンターに腰掛けてブレンドを頼み
そのまま何となく彼の動きを目で追っている。
低く流れる音楽も、嫌みにならない程度に並べられたグリーンも
主人の存在と相俟ってひとつの世界を構築しているようだ。
不躾にならない程度に気をつけながら更に店内を見回す。
狭間の時間帯なのか他に客は無いが
それでも閑散とした雰囲気などは感じない。
調度品に経年の痛みなどまるで見当たりはしないが
おそらくはそれなりに時間を刻んできた店なのであろう。
オーダーの後はこちらに話しかけてくるでもなく、
それでも決して無愛想というわけでもない青年の
無駄の無い静かな動作に沿うように漂う音楽の波に、ふっと目を閉じてみれば
立ち上りつつある珈琲の香りが強くなった気がして
肩の力が抜けていく。
珈琲は、好きだ。
以前は時間に余裕のある時はよく
自分でもそれなりに豆を挽いて楽しんだりもしていた。
最近ではインスタントの苦さを流し込むことばかりになってしまっているけれど。
自宅の食器棚の隅に追いやられて久しく出番を無くした小ぶりなミルを思い出す。
最後にあれを使ったのはいつだったか。
一杯の珈琲をゆっくりと楽しむ時間すらないほどに
果たして僕は忙しかったのだろうか。
グリーン越しの窓硝子の向こうを、鮮やかな色の傘が通る。
その水色がふと懐かしい記憶と重なる。
子供の頃、強請って母に買ってもらった僕の傘は
黄色にあんな水色の星が幾つも描かれていた。
それを早く使いたくて雨を楽しみにしていたことが確かにあったと
今、突然に思い出した。
流れるスロウジャズの合間に
小さな磁器の音と足音。
「お待たせ致しました。」
シンプルでありながらもどことなく暖かみのあるカップから湯気が香る。
一口飲んで僕はほう、と息をついた。
久しぶりのちゃんとした珈琲は
この店の雰囲気そのもののような静かで穏やかな味がした。
「・・・美味いですね」
思わずそう言えば、カウンター越しに青年が微かに微笑んだ。
「雨、上がったようですね」
ああ、雨宿りに入ったのだった、
そんなことを思い出さなくてはいけない自分が可笑しくて
ちょっと俯き、鞄を手に立ち上がる。
会計を済ませ、入る時には気付かなかったカウベルを揺らしてドアを開ければ
通り雨は駆け足で過ぎ去って
空にはうっすらと虹が架かっていた。
明日は晴れる、
そんな気がした。
蝉の音が、夏を告げている。
先刻、すれ違った子供達はプールバッグを手にしていた。
微かな塩素の匂いを鼻腔に思い出しながら足を進める。
木立の先を鳥が通り、夏アゲハが風を泳いでいく。
日々のルーチンワークに追われているうちに
世界はすっかり夏の色だった。
勿論暑くはあるのだけれど
夏は悪い季節ではないと僕は思う。
街中にいる限りはそうでもないけれど
こうして少し足を伸ばせば
森の緑は深く、空の青は透明感を増す。
飛ぶ鳥の影すら力強く、蝉時雨を舞い上げる。
変わらぬ毎日、急ぎ足で流れる時間
そんな中でも少しのやりたいことをやるために
削ることが出来るのは睡眠と食事の時間だったりするから
どうしても日常は駆け足になってしまう。
でも時折こうして思い切って日常のスイッチをオフにしてみると
それが何気ないことの大切さを思い出させてくれるようで。
肩を回して、息をつく。
足を止めて、空を見上げる。
街を見下ろせる小高い丘の上
額に浮かんだ汗を拭いて、大きく一つ呼吸をする。
毎日のひとつを大切に
大丈夫、急がなくてもいいから
無理をしなくてもいいから
ゆっくりと呼吸の出来る早さで歩いて行けばいい、
そんなことを思える日もあるけれど
そんな余裕すら見いだせないのが現実で。
一つが過ぎればまたすぐ次へ
間に合わなくて駆け足で
忙しいという言葉を理由に全てがおざなりになっていく。
そんな自分が嫌だから
それを認めたくはなくて
また、忙しさに埋没していく。
もう一度、ゆっくりと夏の匂いを深く吸い込む。
全身で、季節の音を感じてみる。
蝉時雨、葉擦れの音、太陽の熱。
目の前の風景に懐かしいそれが重なる。
顔を上げれば、乾いた風が前髪を通る。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
生まれた街に少しだけ似た空気のあるこの場所に
時折こうして足を運んでみる。
本当は、いつだって風景はとても優しいと
僕は知っているのだけれど。
僕は今日を歩く。
何も出来ない、なんて言い訳に過ぎない。
立ち止まることを今自分に許したら、二度と進めなくなりそうで。
偽善、でも、欺瞞、でもかまわない。
それでも今、確かに、僕は前を向いて。
こうして進み続けることに決して間違いはないはずだから。
小さなチカラしかないことは十分すぎるほどわかっている。
それでもゼロではないと強く思うことでなんとか俯きそうな心を叱咤して。
たとえ限りなくゼロに近かったとしても、それが何だというのだろう。
その気持ちに嘘はないはずだ。
そう言い切ることにも揺らいでしまいそうになるけれど。
それでも
きっと明けない夜はないと僕は信じている。
甘い考えと言われても良い、今を生きるためにそう信じている。
悲しみや怯え、怒りやもどかしさ。
言葉にすれば僅かな文字。そのものの上っ面さえも伝えない。
背負っているものはそれぞれ大きすぎて誰もが自分一人では背負いきれない。
そして勿論投げ出すことも許されない。
けれど
そうであるのならば尚更 きれい事とは承知の上で
それでも前を向いて今を生きようと
僕は言ってみせる。
街の音の隙間にこうしてそれが聞こえることがある。
少し離れた河川敷の花火大会。
実際に足を向けたことなど無いけれど。
こんな街の中ではあの鮮やかな色彩など見えはしないと
分かっているのに窓を眺めてしまう自分に失笑する。
日没後の空は街の明かりを受け取ってしまっているし
なにより部屋の窓硝子は明かりを付けた室内を映してしまっているというのに。
エアコンの効いた部屋
カロリーオフの缶ビール。
いつもと変わらない週末の僕の時間。
また、微かな花火の音。
あれは、どれくらい前の夏だっただろうかと
遠い花火を思いだした自分に少し驚いた。
火薬の微かな匂い、
不意の夜風に煙に巻かれ笑いながら涙目になる僕と
友達の笑い声
我先にと花火を近付けて何度も消える細いロウソク・・・。
そんなことを思い出してしまったのは
きっとこれのせいなのかもしれない。
同窓会の連絡案内。
差出人は野球部だった彼。
少年時代の夏がまた、微かに蘇る。
今まで一度だって参加の返事を出したことは無いけれど
何となくそのうち一度くらい顔を出してみようかと
常に無く思った自分のこころを
遠い花火の音のせいにして
少し温くなった缶ビールを傾ける。
明日はたまには早起きをして
買い出しにでも出掛けようか。